認知と現代アートと金太郎飴

僕の絵はある意味抽象画だと言える。

基本的には非動物的で無機質なスタイルが僕の持ち味だ。それは描く対象が動物であっても、だ。
侘びのスピリットに真っ向から対立するのが僕の作風である。
無機質であればあるほど美しいと感じるのは作品そのものが持つ表情もそうだが、人間が住む生きた空間の中でのコントラストもまた美しいと思うからで、コンクリートがそのまま壁になっているような都会的なクリエイターの住処にも違和感なく溶け込むと思っている。
その共通解がザウバリズムというマシーナリーな世界観だということ。
それらを”超現実(非現実)”的に分解し組み立てるのが僕の仕事なのだ。

例えば切り取ったフレーム内にドンと存在するダイヤモンド。
所謂(いわゆる)、具象画としての作品であり入り口は抽象的ではないかもしれない。シュールレアリズムの概念から微塵もはみ出ない作品とも言える。概念としては平凡だ。ただそのルール内でどうプレイするかがゲーム性を生み出し、過程を熱狂と駆り立てる。ゲームには2種類ある。制作者側が仕掛けるゲームとオーディエンス側の解釈のゲーム。
蓋を開けるとそこには無限の理解という人それぞれの認知や解釈が展開される。
鑑賞する時宜や心境などによって見えるものが変わったりすることも日常的に起こる。
与えるものが『認知、解釈、理解』と『映像』との違いはあれどまさに絵画はテレビと同じ役割を持った、しかし格段に知的な側面を持った伝播装置だと言えるだろう。
内発的なニューロンネットワークか外発的な電波映像か、といった具合である。

19世紀に印象画などが生まれるまでのとりわけルネサンス頃からの宗教画や風景画、あるシーンを切り取ったような作品はある程度の解釈を誘導するようなものがメインストリームであった。そこには太いストーリーがドンと用意され、それぞれの解釈はあってもXYZを自由に移動できるような現代ほどの多様性の幅は持ち合わせていない。
それはそれで美しいと思うのだが、解釈を楽しみたい=脳内の抽象空間で思考のアクロバットを楽しみたい知性の高いブレインアスリートたちには物足りないのではないかと思う。
絵画や音楽を鑑賞して興奮し寛ぎを憶えるのは脳内で化学物質がお祭り騒ぎを起こし身体中の交感神経という盛り立て役と副交感神経というお目付け役が互いに監視しているからで、芸術はスポーツや茶室でお茶を立てるといった役割を幅広く内包した人間のみが行い得る高次的な行動文化だ言える。
頭脳と体、使い方に違いがあるこそすれ、芸術とスポーツ、どちらも頭脳と体を相互補完していると言えるだろう。
現代アートは脳内の抽象空間の使い方がよりダイナミックになっている現代人の認知力をそのまま反映しているのである。

個人的な見解を述べるとすると、具象画抽象画の賛否とは別に現代アートを好む人間は平均して知性が高めなのではないかと思う。
肥えてきた現代人の脳がそれらの流行を生み出し、知識知性を振り絞って財を成した成功者たちが億単位のお金を注ぎ込んで現代アートを手に入れようとするのは、琴線に触れる作品たちを愛でたいという願望とマネーゲームの次なる投資先としての作品を競り勝つというブレインゲームを楽しむ目的があるわけで、その対象に現代アートが選ばれているというのも認知の所業であると言えるのではないだろうか。

もう一つ裏付けの一片として現生人類とネアンデルタール人の共生と絶滅との関係性に触れてみたい。
今からおよそ5万5千年前、我々の祖先である現生人類とネアンデルタール人が共生していたという事実が判明している。
現代に生き残っているのは現生人類のみであり、ネアンデルタール人は4万年前に絶滅したと言われているがその原因はやはり脳の造りであり、その一例として ”美しいと感じる感覚を共有する能力の欠如” が挙げられるのである。(SNSなどであらゆるタイプの美を共有することは生存本能に則した行動なのではないかと思う)
発掘された跡から現生人類が貝殻を使用していたという痕跡が見つかっている。通貨としてではなく、象徴としての用途だ。
美しい貝殻をアクセサリーや飾り物として使用し身に纏うことで大いなる存在という権力を持つことが出来た。
時は進んで、古代エジプト、ローマ帝国の時代などでも、一つの貝から極少量しか採れない染料の紫が権力を象徴する色として重宝されていた。(紫を使用した国旗がほとんどないのはその希少性ためだと言われている)
つまり、飾り物を身につけ権力を象徴するという行為は、美しいものを美しいと感じる解釈を共有する行為であり高次の脳機能を要することに他ならず、美を愛でる認知の力は時間と共に進化し、認知が欠如しているものを淘汰していったのである。
仮に認知の進化プロセスを逆向きに思考実験してみたとする。つまり中世の絵画作品を原始時代に持っていくと彼らはフレームの中に小さな世界が存在していると勘違いするのではないだろうか。スマホやテレビなど目に見えない電波の働きを見せると腰を抜かすに違いない。これこそが認知の力であり、認知と解釈は時代に合わせて進化し、淘汰され、そして時代と共に育っていく生き物のようだと言えるのではなかろうか。
現代になってようやく高く評価されるようになったが、生前一作しか売れなかったとされるゴッホが不遇の人生を送ったのは当時の時代性や社会の認知や解釈を逸脱した天才だったからであると言える。早すぎたのだ。

芸術は触れる者の数だけ答えが存在する。
とりわけ多様性と自由解釈の幅が広い現代と現代アートに限ってはそれがより顕著に現れると言える。作品は鑑賞する人間が増えれば増えるほど解釈という大きな潮流が生まれ、その解釈全体の方向性は当然時代を反映するものであり上述した現代アートが現代人の認知力を反映することとも相互作用をもたらしているのである。
制作者側と鑑賞者側の拮抗した認知解釈ゲームが切磋琢磨しながら時代と共により高度に複雑化している過程を芸術というフィルターを通して我々は目撃している。そういった面では芸術とテクノロジーは根を同じとする兄弟と言えるだろう。
一人の人間が一生で経験することは、細かな要素を抽象化し一般化させたものを同一とした場合、全体の1億分の1にしかあたらないと言われており、その経験値が一人の思考の8割を占める。より多様性に飛んだ時代が生み出す現代アートへの解釈が時代と共に冪乗数(べきじょうすう)的に膨張する様はビッグバン以後の宇宙のそれととてもよく似ている。

次元を超えて脳と宇宙がリンクしているのは本当なのかもしれない。脳という解釈するマシンがあるから宇宙は存在しているという理論を若干拡張すると、解釈や認知が広がれば宇宙も広がると言える。
次元を戻してまとめるならば現代アートの解釈は非金太郎飴的だということである。

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