死と税金という言葉があります。
「逃れられないもの」の例えとして使われる言葉なのですが、『創造』もまた人間が逃れることが出来ない概念だと言えるでしょう。
そもそも死とは何なのか?
学校の授業で死とは何かを本気で考えさせられたことをきっかけに、死については常々考えていたように思う。
心臓が止まったら、体が動かなくなったら、呼吸をしなくなったら、など、外面上判断できる肉体的な機能停止を挙げるのがその常でしたが、脳死を以て人間の死とすることも死を定義することに矛盾がないように感じます。
更に踏み込めば、意識の連続性や記憶の連続性がなくなった時、肉体ではなくその人個人の死を定義することも可能です。
未来に現れるであろう、テレポートマシン、転送装置なる機械も、
転送先に分子のコピーを製造し、元の分子を消去するという作業のメカニズム的には、
コピー元がオリジナルなのか、新たに複製されたものがオリジナルなのかという議論はさておいて、
これもまた肉体の死を意味すると言えるのではないでしょうか。
そういった具合に、死の定義は人それぞれ違うでしょうし、宗教、哲学、学問、文化、時代、分野によっても、大なり小なり様々な差異が見受けられます。
自発呼吸の停止
心拍の停止
瞳孔の拡大
医学の分野で挙げられる以上の3つの定義が、先に挙げたように我々にとっては一番一般的なものだと思うのですが、改めて死について考えてみる機会を得るとやはり『死』というものは恐ろしいものです。
そんな “忌まわしい” と感じる『死』ですが、人間が死ななくなるとどうなるかと考えたことがある。
死がなくなると一体どんなことが起こるのだろうかと。
不死が人間の通常の生物学的ステータスになるとどんな弊害があるのか、ということに言及するとある一つの問題が上がってきました。
それは、
人は何もしなくなる
ということ。
死という存在と恐怖がなくなると、死から身を護るという行為が一切なくなる。
とりあえず今、周りを見渡してみると、そこには立派な建物がたくさんあることでしょう。
耐震免震構造の建築技術は、地震の多い日本では非常に有用なテクノロジーではありますが、まずそもそも家というもの自体が暑さ寒さなどの気候から、動物や人間などの外敵から身を守るものであったことを考えると、命に限りがない世界観では、こうも高い利便性や快適性、見てくれの美しさなどは家 ”にも” 現れなかったはずです。
後述しますが、利便性や美しさの追求というものはある ”もの” を根とする経済活動から生まれており、トヨタでいうところのKAIZENという概念も生まれなかったわけです。
食べ物に関しても、食べれるもの食べれないものを見分ける必要性がなく、観念的に全てが無毒化される。そして、火を使うということが相対的にリスクが大きい行為にしかならなかったであろうということです。(死なないからリスクはないのかもしれないが、破壊という意味ではリスクがある)
そして、時間という概念もなくなる。
時間の概念、つまり時間の制約がなくなると、義務や責務といった圧力がなくなるため人は楽な道を選ぶ傾向に振れていくでしょう。
何をしても何をしなくても死ぬことはないから、期限を設けた活動が行われなくなる。
何歳で就学し、何歳で卒業、何歳で社会人といった取り決めの必要性もなくなり、人間はやることがなくなります。
死を逃れるために発展した科学、数学、物理学、医学、建築、地質学、天文学、etc etcの一切合切が、存在はするかもしれないが極端に遅い進化を見せるはずで、中には今日では存在しえなかった学問もあるはずだ。
当然、法などもないだろうし、文化や文明は生まれなかったことでしょう。
”全体の死” を逃れる「種の存続」という考えも無くなります。
生殖行為がなくなればほぼ全ての活動の根源となる、男女を男女たらしめる経済活動の一切が失われることになります。
進化論が正しいのであると仮定しても、生命が死なないのであれば環境に適応する過程もなくなるわけで、
産みの苦しみを補完するであろう快楽の存在もなくなるなることになり、生殖行為自体無意味な有酸素運動という扱いになります。
そもそも性の分離がない。
もっと言えば、人間は存在しないことになる。
なぜなら、種の保存、存続という概念が種の淘汰が原因となっているからです。
つまり、死がないならば、生もない。
パラドックス的に死があって生が生まれる。
(鶏が先か卵が先かという命題にも似ていますが、今回の考察から、僕は卵が先だと思っている)
死があるから文化文明的な創造が生まれ、文化文明的な創造こそが生であり、生の証が創造ということなのです。
死が創造を創造するのです。
「失敗は成功の母」という言葉を借りると「死は生の母」ということです。
つまり死が生の根幹を成していて、死は生の一部であり、苦悩の根源的な理由が死であることを考えると苦悩も生の一部ということになります。
死がなければ生もない、人生から死や苦悩のみを抽出することはできない、なぜなら死が生であり、苦悩が生だからだ。
全体として見れば、死は後退ではなく前進であり、種の存続、個の存在そのものが創造なのです。
なぜなら人間が人間らしい活動をすることそのものが創造だからだ。
アートの語源は元を辿れば、ギリシャ語の「テクネ」。
技術を意味し、人為的に人工的に生み出されたものがそれだ。
英語の「Art」にも “美しい物や意味のある物の創造” という意味以外に「人為的」という意味合いがあり、「Artificial」という言葉はそのまま「人工的な」という意味として使われている。
つまり、何が言いたいかというと、人間の活動全て”人為的”であるからこそ、アートであり、芸術であり、 “美しい意味のある創造” ということなのです。
バスキアやアンディウォーホルのように究極の芸術を極めた作品を生み出すことだけが創造ではなく、
ベクシンスキーのように有限のフレームの中に生の根源となる、荒廃的だが美しい無限の死を収めた華厳(けごん)の侘び寂び(わびさび)を感じる存在に類するものだけが創造なのではなく、
とどのつまりはそういうことで、
死があるからこそ有限の生が生まれ、その限りある時間と空間の中で人生をかけて意味を見出すということこそが、生きるということで、その一瞬一瞬を精一杯生きるということが死と生を創造するというその個人のみが創り上げることの出来るオリジナルの文脈ということになるのではないでしょうか。
ではまた。